【新会社設立】なぜ薬を売る会社で「薬に頼らない未来」を目指したのか? 大手製薬会社から生まれたイントレプレナーの挑戦【Hers HeAlth Technologies】

2025年5月、大手製薬会社・旭化成ファーマから一つの新会社がスピンアウトした。Hers HeAlth Technologies(ハーズヘルス・テクノロジーズ)株式会社の代表取締役を務める大黒聡氏は、多くの女性が直面しながらも、これまで十分な対策が取られてこなかった「骨の健康」という課題に、全く新しいアプローチで挑もうとしている。 彼の原動力は、製薬会社に身を置く中で抱いた一つの大きな疑問だった。それは、患者を救うはずの薬が時に大きな負担となる現実、そして病気を発症してから対処するのでは限界があるという、もどかしい現実を目の当たりにしたことから生まれた。 これは、単なる新規事業の成功物語ではない。大企業という組織の中で、自らが信じる「正しいこと」を問い続け、前例のない道を切り拓いた一人のイントレプレナー(社内起業家)の、葛藤と信念の物語である。

目次

すべての始まりは、一人の患者の「声なき声」だった

もともと大黒氏は、骨粗鬆症の治療薬を扱う事業に携わっていた。当時の使命は、開発した医薬品を一人でも多くの患者に届け、病気の進行を食い止めること。それが問題解決のすべてだと信じていた。しかし、ある患者へのインタビューが、その信念を根底から揺るがすことになる。

大黒氏: 「ある時、骨粗鬆症の患者さんにインタビューをさせていただく機会がありました。その方は、骨折を機に医療機関を受診して『骨粗鬆症』と診断され、以来、数年にわたり治療を続けていらっしゃいました。最初は飲み薬から治療を始めたそうですが、服用には様々な制約があり、煩わしさを感じながらも治療を継続されたそうです。しかし、痛みがあるわけでもなく、効果も実感しにくいため、しばらくしてご自身の判断で服用をやめてしまいました。

その後、2度目の骨折で再び医療機関を受診し、治療が再開されました。が、今度はより強力な薬での治療となり、つらい副作用に悩まされたそうです。しかし主治医と相談しながら何とか治療を続けられたとのことでした。治療の日はカレンダーに印をつけ、ご家族にも協力してもらいながら、憂鬱な気分で病院へ向かう。そんな、言葉では表現し尽くせないほど壮絶な日々を過ごされていたお話を伺い、治療の過酷な実態を初めて知りました。言葉を失うほどの衝撃を受けたことを鮮明に覚えています。」

大黒氏: 「ご家族にもお話を伺うと、『治療の日にあわせて仕事や家の用事を調整したり、様々なサポートをするのが大変でした』と。一方で、『治療の効果が出て、今は少し作用が穏やかな薬に変わり、副作用に苦しむこともなくなったので、本人も私たちもホッとしています』ともお話されていました。

骨粗鬆症の治療は、順調に進めば『ドラッグホリデー』と呼ばれる休薬期間を設けることもありますが、次の骨折を防ぐために基本的にはずっと続きます。治療を続けること自体がご本人やご家族の日常に影響しますし、一定の治療費もかかり続けるため、経済的な負担も決して軽くはありません。

このお話を伺って、そもそも『薬が必要な状態になる前に、できる限り骨の健康を維持し、骨粗鬆症や将来の骨折を予防することを目指す方が良いのではないか』と強く思ったんです。それが、すべての始まりだったのかもしれません。もちろん、薬が必要な場面はありますし、これからもその重要性は変わりません。しかし、それに加えて『予防する』というアプローチも同じくらい重要なのではないかと考えています。」

この経験から、大黒氏の視点は「治療」から「予防」へと大きくシフトした。病気になった人を薬で救うだけでなく、そもそも病気になる人を一人でも減らしたい。その想いが、新たな事業の種となったのである。

「骨の問題」という、静かに忍び寄る社会の危機

大黒氏が着目した「骨の問題」は、多くの人が「知っているようで、知らない」深刻な課題をはらんでいる。骨量は20代でピークに達し、その後は維持、そして減少していく。特に女性は、閉経を機に女性ホルモン(エストロゲン)が急激に減少するため、骨量が大きく低下する。骨の健康が、エストロゲンに大きく依存しているからだ。

大黒氏: 「骨の問題は、健康診断の必須項目に含まれていないことも多く、自覚がないまま何の引っ掛かりもなく見過ごされがちです。しかし、60歳頃からある日突然、骨折する方が増え始めます。医師からよく聞く話ですが、最初は転倒した際、まだ反射神経が働くため手をついてしまい、手首を骨折するケースが多いようです。

そしてその後は、背骨がくしゃっと押し潰されるように折れていく。腰が曲がって前かがみになっている方を見かけることがあると思いますが、あれは背骨が骨折してしまっている状態なのです。ドミノ骨折と言われることもあるのですが、まさに背骨が1か所折れてしまうとドミノ倒しのように次々に骨折を起こしてしまうこともあります。」

そして最後に、生活の質を決定的に変えてしまう骨折が待ち受ける。

大黒氏: 「70代後半頃からは、大腿骨を骨折される方が増えていきます。骨折は元通りに治るというイメージを持たれがちですが、高齢になってからの骨折は、元通りに治らないケースも少なくないと、これも医師からよく聞くお話です。実際に、大腿骨近位部骨折を起こした方のうち、退院時点で3人に1人は自力での屋外歩行ができるところまで回復していないというデータもあります。(※)

人生100年時代と言われる今、もし70代で骨折して歩けなくなり介護が必要になったら、残りの20~30年はQOL(生活の質)が著しく低下してしまいます。ご本人も大変ですが、介護をするご家族の負担も計り知れません。さらに、日本の骨粗鬆症が原因と考えられる骨折による医療・介護費は、家族の介護負担額も含めると年間2~4兆円にのぼるという試算もあります。この経済的な負担は、将来世代が納める税金で支えなければなりません。この未来を想像した時、持続可能な社会を次世代に残すためにも、今すぐ何とかしなければならないと思ったのです。」

※久保祐介ほか.大腿骨近位部骨折における退院時歩行能力に影響する因子の検討.整形外科と災害外科.2012,61巻,1号,p.21-25.

医薬品を扱う会社で「薬だけに依存しない未来」を語る葛藤

しかし、「ビヨンド・ザ・ピル=薬だけに頼らない世の中を目指す」というビジョンは、医薬品の売上で成り立つ製薬会社において、両立が難しい矛盾をはらむ挑戦でもあった。

大黒氏: 「新規事業は、既存事業と矛盾をはらむことも多く、なかなか理解されにくいという特徴があると思います。私はMBAで様々な新規事業のケースや『イノベーションのジレンマ』について体系的に学びましたが、やはり歴史を振り返っても、企業の中で新しい事業を興すことは決して容易ではないと知りました。だから、社内で新規事業をやろうとすると、すごいエネルギーが必要です。それでもやり遂げる価値があると思うから、誠意とできる限りの説明を尽くして、多くの方のサポートをいただきながら、何とかここまで続けられてきたのだと思います。」

大企業、特に成功している企業ほど、既存事業を守る力が強く働き、新しい事業を動かすことは困難を極める。大黒氏のプロジェクトも順風満帆にきたわけではない。それでも彼が諦めなかったのは、「自分がやらなければ、この問題は誰も解決しないのではないか」という強い使命感と、ある種の負けん気があったからだ。

大黒氏: 「『これ、自分がやらんかったら多分誰もやらへんのちゃうかな』みたいな、ある種の勝手な思い込みというか、使命感ですね。あとは、目標を立てたら必ずやり切りたいというマインド。そういったものはあったかもしれません。」

突然訪れた転機。「やめるか、売るか、外に出るか」

新事業企画室の立ち上げから3年目。メンバーと様々な事業を模索する中で、大黒氏が担当するプロジェクトをどう進めるべきか、答えを探し続ける日々が続いた。そんな中、スピンアウトという選択肢が現実味を帯び始める。

大黒氏: 「私の上司や新事業企画室のメンバーと共に、今後の事業創造の場をどこに置くべきかを議論しました。この事業をやめるのか、売却するのか、あるいはスピンアウト(独立)してでも続けるのか。様々な議論がありましたが、私の中に『やめる』という選択肢はありませんでした。『スピンアウトの方向で、実現性や会社のメリット・デメリットなどを複合的に検討し、提案させてほしい』という私の要望を上司が真摯に受け止めてくださり、そこから具体的な検討が始まりました。」

それは、長年の停滞を打ち破る、まさに千載一遇の好機だった。諦めずに続けていれば、いつか道は開けるかもしれない。その言葉を体現するような出来事であった。

「出島」という名の突破口

大黒氏: 「いざ『外に出る』と言っても、何から手をつければいいのか分かりませんでした。そこで、様々な専門家の方にヒアリングを重ね、あらゆる手段を検討しました。その中で、数年前から細く繋がりを保っていた新規事業の伴走支援を手がけるCo-Studio株式会社が提供する『Co-DEZIMA』という仕組みがマッチするのではないかと思いました。」

大黒氏: 「いろんな選択肢を比較検討しました。子会社、出向起業、ジョイントベンチャー…。その中で、Co-Studioから提案された『出島』という形が、まだプロダクトもない僕らの状況には最適ではないかという結論に至ったのです。」

こうして、旭化成ファーマの社内で生まれた小さなアイデアは、「出島」へと場を移し、「Hers HeAlth Technologies」として新たな船出をすることになった。

では、大企業での新規事業創出における「様々な壁」を突破するために、大黒氏は具体的にどのような思考で動き、社内をどう巻き込んでいったのか。そして、彼が最後に語った、事を成そうとするすべての人に共通する「たった一つの心構え」とは。

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【有料記事】新規事業の「様々な壁」を突破する思考と技術 社内政治を乗り切る、戦略的な立ち回り

大黒氏の事業は、既存事業と利益が相反する可能性があった。このような状況で、なぜ彼のプロジェクトは完全に中止されることなく、存続できたのか。そこには、巧みな戦略があった。

大黒氏: 「僕が意識していたのは、徹底的に『既存事業に寄り添う』ということです。会社にとっては当然、骨粗鬆症の治療薬が主力領域であり、最重要です。ですから、僕のやろうとしていることは決して既存事業と対立するものではなく、むしろ追い風になるのだということを、常に丁寧に説明するよう心がけていました。そこは、非常に強く意識していました。

予防的な手段は、医薬品に比べると科学的根拠のレベルで劣るものも多いのが実情です。その中で、例えば『サプリメントを売りたい』と主張したところで、当然受け入れられるものではないと思います。

そこで私が提案したのが、トップメーカーの責務としても重要だと考えていた『疾患啓発』です。つまり、病気の潜在層にアプローチすることで、結果的に治療が必要な患者さんが見つかり、医薬品の売上にもつながる、というロジックです。

この疾患啓発の取り組みを通じて、一般の方々から直接お話を聞く機会が増え、さらに医療従事者や行政・自治体の方々とも、普段の製薬企業の立場とはまた違った視点で様々な議論をさせていただきました。この経験から、『予防』の重要性を確信し、疾患啓発の先にある予防ソリューションの提供を通じて、『骨のケア』が当たり前になる社会を創りたいという想いが一層強くなりました。」

実現したいビジョンはぶらさない。しかし、それを実現するために、組織が受け入れやすい形に翻訳して説明する。これは、大企業で新しい挑戦をするすべてのイントレプレナーにとって、極めて重要な示唆と言えるだろう。

なぜ「出島」でなければならなかったのか?

外に出たことで、仕事の進め方は劇的に変わった。その変化こそが、「出島」スキームの本質的な価値を物語っている。

大黒氏: 「外に出て一番変わったのは、本当にやるべきことだけに集中できる環境になったことです。とても新鮮ですね。もちろん、すべてを自分で決めなければいけない不安はあります。大企業であれば多くの方が様々な立場でアドバイスや意見をくださるので、意思決定の質が高まりますよね。今もメンバーで十分に議論した上で最終的には私が決めますが、後になって『ほんまにこれでええんかな』と不安を感じることはよくあります。それでも、立ち止まっている暇はないので、エラーをしながらでも前に進むことが重要だと考え、毎日悩みながら奮闘しています。」

Co-DEZIMAスキームは、大企業のガバナンス(管理体制)からあえて切り離すことで、事業の推進スピードを最大化させる仕組みだ。大企業の持つ知見や信頼といった強みは活かしつつ、スピード感を持って動く。これこそが、大企業が陥りがちな「イノベーションのジレンマ」を乗り越えるための、現代的な解決策なのである。

事を成す人に共通する「一つ」の心構え

最後に、これから何かを始めたい人や、今まさに困難な挑戦の最中にいる人へのメッセージを尋ねた。彼の答えは、かつての上司や、京セラの創業者・稲盛和夫氏の哲学にも通じる、普遍的なものだった。その根底には、一人の医師との出会いがあったという。

大黒氏: 「MR時代に担当していた大学教授の影響が大きいです。その先生はいつも『世の中は目に見えへんものが大事なんや』と。『肩書きとか見た目は大したことない。それより、雰囲気とか、やる気とか、愛情とか、そういう目に見えないものが一番大事やねん』と。

その先生は、『患者さんが喜ぶと家族も喜ぶ。それが巡り巡って良い形で自分にも返ってくる』とよくおっしゃっており、毎日帰宅前に病棟に寄って、患者さんやご家族に声をかけて回っていました。『自分がそうするだけで、患者さんやご家族がすごく安心してくれる。そういうことが大事なんだ』と。その話を聞いてから、人のために何かがしたい、という思いが芽生えたんです。」

この「利他の精神」こそが、彼の行動哲学の核となっている。

大黒氏: 「(京セラ創業者の)稲盛さんの本にも書かれていましたが、何かを決断する時、その判断に『私心』、つまり自分の利益だけを考える心がないかどうかが、すごく大事だと思います。私心で決めたことは長続きしない。でも、利他の心、つまり世のため人のためという想いで始めたことは、不思議と協力者が現れて、いずれ形になっていく。

僕自身、これから成功するかどうかなんて全く分かりません。でも、この事業はやるべきことだと信じている。『世の中から骨折をなくそう』という高い目標があれば、大抵のことは乗り越えられる気がします。人生は一度きり。死ぬ時に『あれをやっておけばよかった』と後悔するくらいなら、挑戦した方がいい。無責任に聞こえるかもしれませんが、僕はそう思います」

高い志は、目先の困難を乗り越える力になる。そして、その志が「利他」に基づいている時、人は一人ではなくなる。大黒氏の挑戦は、まだ始まったばかりだ。しかし彼の物語は、変化をためらう現代の日本企業と、その中で想いを燻らせる多くの挑戦者たちに、確かな光を投げかけている。